2013年1月4日金曜日
つかまえたくなっちゃって
最近凄く自分は健康だなあと思う。そしてメスになった。
前までの自分は色んなことがどうでもよくって、だから怖いものも余り無くってある意味で自暴自棄だと言われたりして道化師ぶっていたのだけれど、色んな国へ行かせてもらったりして色んなものを食べてたりみてみたりして、余りのも多くの人々と出会って、その出会った人たちが私にはもったいないくらいに、何で仲良くしてくれるのかなと思うくらいに魅力的な人ばかりだったもんだからすっかり幸せ者になっちゃって。
気づいてみたらげらげら笑っていて。
健康になっちゃって。
これまで私が色々な世界や話に出会うことは本や映画だったのが生身の人間になって、本物の世界や話に出会いました。
周りの方々のおかげで新しいことを始めることができました。
少し自分の世界というものを共有できたりしておもしろい体験だった。
最近の私は前に比べるとちゃんと生きている。クソだけど。
幸せ者になったからです。有り難い。
でもそしたら一気に欲深くなっちゃって。寂しくなっちゃって。
ちょっとセンチメンタルになったりして。
ああ女々しいなあ、こんな自分くっそだりいいいいいいと思う。
あんなにどうでもよかったのに色んなことを思うようになっちゃって。
そんな自分もいいなあと思えるようになるのかな。
これが私のねじまがりを経た健康です。
そんな女々しさだりいなと思えることは幸せな悩みです。たぶん。
健康ってのはいいです。
でも色んな意味で肥えてしまわないようにする必要があります。
あれもこれもおいしいって食べていたら身動きとれなくなってしまってしまうし
ちゃんと見極めて食べないとおなかを下して痛いめにあうし、よく噛まないと消化不良で栄養とれないでこれまたおなかを下す。
嫌いなものもちゃんと食べないと色んな部分に後から支障が出てきて、ニキビが出たり肌荒れしたり。
そういうのって何かを犠牲にしておいて、有り難いものに対して失礼だ。
それはものごとにおいても同じことだと思う。
ちゃんと食べたものがその後の血と肉になるというように
ものごとだって血と肉となってそのひとをかたちづくる。
なにをもっておいしいだとかうつくしいだとかを思う芯の部分を作っていくのだと思う。
だからちゃんと有り難みを忘れないでちゃんと色々なものごとに向き合って溢れている多くのそれを見極めて、よく自分の中に噛み砕いて、ストックして、要らないものは捨てて、鍛えて、エネルギーを外に放出して、どんどん健康になりたいものです。
とまあよくある例をしてみた。やあやあ凡人。
何故こんなことをだらだら書いているかというと、正月祖父の家でテレビを見てげらげら笑う家族や親戚をみてまったくなにがなんだかわからなくなって。ぜんぜんつまらなくてわからなくて。村上春樹の風の歌を聴けをゲオで105円で買って、その世界に逃げ込んだらそれはもうすばらしかったからです。村上春樹とは相性がいい。
“文明とは伝達である、と彼は言った。もしなにか伝達出来ないならそれは伝達しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は「お腹が空いています。」と一言しゃべればいい。僕は君にクッキーをあげる。食べても良いよ。(僕はクッキーをひとつつまんだ。)君が何も言わないとクッキーは無い。(医者は意地悪そうにクッキーを皿のテーブルの下に隠した。)
ゼロだ。わかるね?君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずに表現したい。ゼスチュアゲームだ。やってごらん。
僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った、それじゃ消化不良だ。
「猫について何でもいいからしゃべってごらん」
「思いつくことなら何だっていいさ。」
「四つ足の動物です。」
「象だってそうだよ。」
「ずっと小さい。」
「それから?」
「家庭で飼われていて、気が向くと鼠を殺す。」
「何を食べる?」
「魚。」
「ソーセージは?」
「ソーセージも。」
そんな具合だ。
医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことがなくなった時文明は終わる。パチン…OFF。”
そんな文章を読んで、クッキーみたいに無くならない様に、私が無いものにならないように思い立ってだらだらと書いてみました。
今年はスタートから本を読みつつ映画もみつつ、私をいつも幸せにしてくれる人たちとげらげら笑いつつ。そんなごくあたり前の幸せをやっと手に入れて過ごしています。明日が来るのが楽しみだなあと思えることはほんとうにしあわせです。
こんな絶賛中二病気取りなわたしをこれからもよろしくおねがいします。
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